芸術の持つ暴力性と私の考えが持つ暴力性
最近、人が撮るのが怖くなってました。
撮るのが嫌になったとか、写真が嫌いになったとかそういうわけではありません。
自分が考えてることを突き進めていった結果、今まであった芸術の暴力性とそれとはまた違う暴力性を持つことに気づいたからです。
私が考える暴力性の話とは別に芸術の暴力性とは?という話になりますね。
それについて話したいと思います。
・芸術の持つ暴力性
芸術の歴史に対して女性のヌードは切っても切れない関係になってると思います。裸婦像やヌードのデッサン、絵画、写真など密接に関わってます。そんな中で、私が撮る、作品として世間に出すということに対しての暴力性というものがうまれます。
これはついぞこの間教えて頂いたのですが、オノヨーコさんが作った作品でこんなのがあります。
https://www.youtube.com/watch?v=lYJ3dPwa2tI
Yoko Ono - Cut Piece(1964)
これは、見た時に衝撃を受けました…こんなのを1964年に作れるのかと…
それと同時に、芸術のもつ女性のヌードに対する暴力性を如実に表しているなと感じました。
私はヌードを撮るときはこのような覚悟を持って挑んでいこうと思ってます。
芸術のもつ暴力性についてはなんとなくお話ができたかなと思います。
なので私の考えが持つ暴力性についてお話しします。
・私の考えが持つ暴力性
私が今考えているのは、人を幾何的対象としてみてみようというものです。つまり、人というものを線や三角形、四角柱、球といったものと同じものとしてみようということです。その時どんな性質が現れる、またはどんなことが表現できるのかみたいなことを考えています。
何が?と思うかもしれませんが、要は人を三角形などの図形と同じように物扱いするというものです。人の人たるところではなく純粋に形状として扱うことは暴力的ではないだろうか?ととても不安に襲われました。私は図形に対して性愛などはないですし、多様体愛護協会というものほど、愛でてもいません。これは慎重に考えないといけないなあと思ってました。
この暴力性についてですが、最近解決(と言っていいのかわかりませんが)しました。
被写体さんとこの話をしていた時に「私はあなたをこういう風にとらえて撮ります。それで大丈夫ですか?って聞けばよくないですか?ダメだったらそれでいいじゃないですか」と言われて、目から鱗といいますか、根本的なことを忘れていたなと。被写体さんに尋ねるという一番大事なことを忘れてました… もちろん自分の作品なので自分で考えるのは大事なのですが、人を撮るのですから、そこを忘れてはいけないなと。
(ちなみにこの方には「アウトプットが下手ですよね笑」と言われました…精進したいです…)
そんなことを最近ずっと考えていました。
入学手続き終わりますように。。。