REONALab.Blog

数学と芸術とプログラムについて日々思ったことを書いていきます、雑食。

「センスは知識からはじまる」を読む。

地獄だったテスト週間も終わり早幾星霜。

とりあえず、移動中に読みたかった本を読むなどしてる時に今まで読みたくても読めなかった本を読んでみようと思い読んでみた。

 

『センスは知識からはじまる』水野学 著、2014年出版の本。

ここで初めて新書について感想を書くので、ちょっとばかり緊張している。まあいつも通り駄文を書いて終わるかもしれないのだが。

 中身を一通り読んだ感想は新書の中ではかなりいい本ではないかなという感じの内容だった。まず何がいいのかというと一番最初に『センス』とは何か?と定義するところからこの本が始まっているところに感銘を受けた。当り前だが議論をしたいものに対して定義しなければそれを深く議論することはできない。その当り前をちゃんとしているところがとても評価できた。

 次にいいなと思ったのは、センスを定義したら次はどう知識をつけていくかということにフォーカスを与えて、具体例を提示し理論的に推断して客観的な判断を下す。これも当り前のことだが中々簡単にできるものではないし、ちゃんと伝えられるものでもない。けど著者はそこの伝え方がしっかりしているなと感じた。

 最後にいいなと思ったのは、「あの人はセンスがいいから」は逃げである。ということを強調している点だった。どんなこともその人が持ってるものに最初は依存するも後はその人がいくらだけの知識をつけたかに依存するという意味ではセンスがいいからで片付けられたら、その人はたまったもんじゃない。というのもちゃん伝えているのが好きだった。

 

ただ、全ていいなと思ったわけではない。気になった一文がある。

『デザインには「1+1=2」のように絶対の解はありません』という文章だ。これは著者が言っている知識がないことによる先入観をそのまま表している。どのような構造+という演算、1を定義しているかによって1+1の意味は変わる。それを知らないのは仕方ないかもしれないが、少なくとも専門分野でないことに対しては最新の注意を払って話すべきである。(これも当り前のことだが)それと安易に「絶対」という言葉を用いるべきではないと思っているのでうーむと思った次第である。

 

だが、読んでとても楽しい気分になれたので、この先生の授業に一度潜って話を聞いてみたいなと思った。それと、他のことも知っておくべきだなあと。教養をつけたことによって自分の専門分野の深い理解にもつながるなあと感じる。

 

それでは駄文失礼しました。

「君の膵臓をたべたい」を読む。

まさか更新がこんなに早くなるとは思わなかった。

1日が手持ちぶたさんになったので近くの本屋に入って知人が読んでいた本を手にとって読んだら結構面白かったので、買って読んでしまった。

手持ちぶたさんにしてくれた友人には感謝しないといけない。(感謝はしてない)

 

住野よる作、2015年出版の「君の膵臓をたべたい」。

主人公は他人とまったく関わろうともしない読書が好きな高校二年生の「ぼく」。ある用事で病院に行ったときに、いすに置いてある見たこともない本に惹かれて手を取った。その本のタイトルは『共病日記』。それがきっかけでクラスメイトの山内桜良と不思議な関係になる……。

 

最近、結構中身を読んで欲しくて内容を書かないことが多くなってしまった。これを見た人の一人でもみてくれて一緒に感想を言い合いたいなあと思ったら書くのもあれかなと思い、あまり言わないようになってしまった。勿体無い。

まあ、ここからは個人の感想がつらつらと書かれているものだと思ってくだされば。

 

最近読んだ本の中では結構好きな部類に入る本だ。個人的には結構文体に好き嫌いが多いので買っても読まない本とか沢山あるのだがこれは結構好みの文体だった(好きな特徴とか嫌いな特徴はこれ!みたいなものはないがそんなものは気分で変わるので…)

まあそれは置いといて、気に入った表現はタイトルの『君の膵臓をたべたい』まさにこれにつきる。私は今まで誰かと心の逢瀬を重ねたことなどほとんどないが、これは本当に重なったんだろうなあとおもう。素敵だなと純粋に感じた。

人と心の逢瀬を重ねた時にその人が必要とされていると感じると私はかってに思ってる。だからこの本が好きなんだろうなあ感じた。素敵な本だ。

これ以上はまあ無粋になるので書かない。

 

これをみたら、ちょっと小説を書きたくなった。前に駄文なのを書いた覚えがあるがもうちょいまともなものを書いてみたいなあと思った。

 

というわけで、よかったらこの本の感想言い合いたいのでお茶でも行きませんか?

 

ではこれで。

 

 

最近したこと、やりたいこと。

お久しぶりです。

最近めっきり更新がなかったのは純粋に長文を書くことに飽きたのと、小説や映画を見なかったことが起因しているのではないだろうか……

小説や映画を買うお金や時間が欲しい……(寝る時間があるなら教養をつけたい)

 

今回筆を取った理由は今回初めて数学で講演をやらせてもらったことをつらつらと書きたくなったからでして。某セミナーで非古典論理の話なんていうキワモノ発表させていただいたことに感謝しています。ただそこで話せなかったことも書きたいなあと。

 

発表の感想としてはめちゃくちゃ緊張しました。もう心臓が飛び出そうぐらい緊張した。(元々緊張しい)発表は後からネットで聞いてみると早口だしテンポとか悪いしスライド間違えてるしダメダメだなあと感じた。

だが終わった後は楽しかった。質問も結構来てくれたし何より面白かったと言ってくれる方がいて良かった。ただでさえ基礎論は興味ある人がいないのに、ましてや様相論理のことでだれか面白いと思ってくれるとは思わなかったからなあ。またやりたいと思ったので機会があったらもっとこみ入った話がうまくできるようにしたい。今度はもっと前から綿密にやりたいなあ。

 

ここからは完璧個人的な見解を述べるだけ。

普通の数学科生がどこまで数理論理学を知っているかがとても気になる。ぶっちゃけて命題論理の話はめちゃくちゃしたくなかった……

まあ普段数学をしてる上で みんながやることといったら意味論的同値性ぐらいだしなあと。なので数理論理学の科目が増えたら嬉しいなって勝手に思ってます。

あとは非古典論理の日本語の文献少なすぎて辛いなあと思ってたり思ってなかったりするので今後時間があったらノートまとめてここに貼ろうかなと(自分のでよければですが……)。

モデル理論のこともまだまだ全然知らないので(Stability Theoryまだやってないしやりたい)そこらへん甘いなあと思うので2016年は基礎をちゃんとつけたいなと。

来年はなんかそこいらで発表できたらいいなと思ってます。

 

 

 

ここからは数学じゃなくなって、別の話。

最近久々に撮影を行った。バラの花束を使った撮影だったのだがとても楽しかった。バラだけの花束をかう機会なんてそうそうないし、撮影自体もとても楽しかった。

今後フリージア(イエローモンキーの影響)とか、他のバラの色の花束とかで撮影を行いたいなあと思ったのでやりたい方はよかったら。

ただ、夜のストロボ撮影だったため、自分の撮影技術の腕を思い知った。もっと綺麗に撮れるようにたくさん練習しないといけない、もっと勉強もしなくてはと感じた。数学みたいに師事できたらいいのだがそうもいかないところがあったりするのでこれはもう本当にいかに自分の時間作りが重要になるかだなあ。

 

最後に来年の抱負。

痩せます、数学します、写真します。

 

かな(笑)

具体的な目標は書きませんが来年で大学4年生が終わるので色々やりたいこと後悔しないようにしていこうとおもいます。

 

それではみなさん良いお年を。

 

 

 

 

 

秋の夜長に。

今日はなんとなく筆をとってみた。たまには頭に浮かんでることを適当に書いてみるのもいいかと思ったので。あ、ちなみにタイトルなんか気に入らなかったのでこっちにしました。

 

最近は色々と人生について考えている。今自分が学部の3年生というのもあるし、23歳だからというのもある。無茶もあまりできなくなる歳だ。一人で生きていかなければならない時が来るからだ。だからと言ってなにも変化を望まないわけではないので難しいお年頃といった感じだ。

最近おもったのだが、ひとはこの歳ぐらいになると多感になると思う。色々と直面する責任が多い故に多感になるのだろう。かくいうわたしも結婚したいと思うことがままあるし、(恋人すらいないのに……)働きたいなあと思うことがある。そんな風に多感になる理由は簡単でこれらをしてれば将来がある程度わかって安定するからだと思う。もちろんそっちの方が簡単というわけではないが今から行きたい道に比べたら怖さが自分にとっては段違いなのだ。と思ったわけで。不安を持つのは仕方ないし、就職したからといって悪いわけではない。むしろ独り立ちするには就職する方がいい。だがまあそれを選んだら後悔してしまうんだろうなあとおもう。事実今の生活が気に入っている。選んだ道は楽じゃないけどやりたいだけやってから考えたい。

 

とまあ不安を持ってるのをちょっとつらつらと書いてみたかった。今日はいつにもまして駄文だなあ。まあ、それがいい。

 

なんて思いながら京都の夜を散歩しながら冷えた頃にノルマンディコーヒーを飲みながら読書したい気分だ。

筆を捨てて街に出よう。

 

では。

「星へ落ちる」を読む。

2011年、金原ひとみ著の短編集小説。

 

早い投稿になりましたが、映画を見たのではなく小説を読んだ。このサイトは別に映画に限定してるわけではなく、書きたいことを(表現で他人を傷つけない程度)書くサイトなので、まあ雑食で書いていきたい。特に小説からは教養を得られるものがたくさんあると思っているので時間がある限り読んでいきたい。だからといって駄文なのは何も変わらないという……。前置きはこれぐらいで、本筋に入りたいと思う。

 

「彼」には同棲している男がいる。そんな「彼」を好きになった「私」と「彼」に「私」の影を感じて不安になる「僕」、そして「私」との復縁をのぞむ「俺」の視点から書く恋愛短編集。ぶっちゃけて言えば全員が恋人に依存しているメンヘラ気質な重い恋愛みたいなものだが、ここで「私」や「僕」は悪く言えない。なぜなら、まずこいつが悪い意味で「いい男」なのだ。二股に対しては私は寛容派で恋愛なんて個人の価値観だし、何をしようと法律に触れなければ大丈夫と思ってる(恋愛において)が、まあこの「彼」は典型的に恋人をだめにする人だと思う。魅力があるのだが、それを理解してない、そして人に対して優しい。こういう人は「優しい人」であって「良い人」ではない。自分が好きじゃなくなった人を綺麗に切り捨てるのも大事だとおもってる。そういうことができないなら二股とか無理だし、別れる相手が「死ぬ」と言ったら、話を応じるのはとても良くない。それは相手の思う壺なのだ。(一体私は何様なんだ)

まあそういうわけで、「彼」にはいい感情があまり浮かばなかった(僻みじゃない)がそれを差し引いても不気味なリアル感のある恋愛小説だなと思った。「私」は売れている美女作家、「僕」は超絶イケメンで稼ぎもいい、なのに「彼」を自分のものにしていないと二人ともくるってしまう。二人とも幸せを「彼」に依存しきってるのだ。いったい何処がそこまで魅力的なんだ?と思うのだが(あまり彼の描写や喋ることが多いわけではないので)冒頭で彼がしゃべっているセリフでこういうのがある。

 

「ずっと一つの星を見上げてると、自分がその星に落ちていきそうな気がしてこない?」

 

私はこういう人が好きなので非常に惚れ込んでしまう気持ちがわかってしまうところが辛い……w 30代ぐらいのいい大人でこの表現が出てくるところがこの人の魅力を感じた瞬間だった。一緒に夜に海にいってこれを言われたら私もズキュンときてしまうなあ…。まあ私のことはおいておいて、これに加えてイケメンで優しかったら惚れ込んでしまうかなあと思う。またそれとは別に「私」にも「僕」にも癖のあるところがあるし、いままで一切出てこない「俺」も中々面白いのだが、書くのに疲れてしまったのでここで終わりにしたい。ぜひ詳細を見てほしい小説だ。

 

追記

これ書いた後ほんの少し見直して、自分がなんとなく思っていたことがやっと具体的になった。「彼」は「私」と「僕」にとっての宗教だと感じた。例えば、上に挙げたセリフ以外「彼」はほとんど存在を小説中に出さない。セリフも「私」と「僕」を介して伝わってくる。その感じが私が思う宗教的な愛がそこにあったと感じた。何より自分の幸せを「彼」に依存しているのが特にそう思えたからだ。「俺」は「私」を崇拝するかのように待っていた。「私」が帰ってくることを祈りながら夜を過ごしたり、「私」に対する毎日のメールや電話の数は気持ちが悪いほどだった。そういう意味で敬虔な様を醸し出している。

私は宗教的背景とかそういうのをしたいわけでは一切なく、むしろ人への愛というのはここまでアイデンティティーになるのかということである。はたから見ると滑稽さがある。けれどこの人たちにとっては本気なのだ、どうしようもないほど。そういう意味で最高な愛と思う。猜疑心はあるかもしれないが、目指す先は『髪結いの亭主』と同じ方向だったのかもしれない。それが「彼」によって裏切りがあったため「私」と「僕」は壊れていったのだ。やっと腑に落ちた。よかったよかった。

追記終わり。

 

金原ひとみさんは「蛇にピアス」の代表作で知られていると思うが、これも面白いと思う。個人的には色メガネで見たくないので代表作はあまり見ない主義なのだが、他数冊読んでみて面白かったら代表作を読んでみたい。ただ、金原ひとみさんは結構好きな表現もするのだが、物足りなさを感じる。なんか冷めてるというかなんというか。そこが不気味に感じてしまうのだが、同じ不気味でも生々しくておぞましい不気味さ、人の生の心にふれあいまくる感じが好きなんだよなあと。まあ現代的な人の心の不気味さだと思う。どっちがいいとかはないと思ってるので金原ひとみさんが書きたいことを書いてくれた方が私としては嬉しい。(だから何様なんだ、この駄文野郎)

 

私は色んな星を旅して、本当の気持ちを知りに行きたい。

Fly me to the moon.

それでは駄文失礼しました。

東京シャッターガール

2013年、手塚眞、コバヤシモトユキ、寺内康太郎の三人の監督による短編集の日本映画。

 

とても久しぶりにレビューをかく。というのも全然本を読んでなければ映画も見ていない。これは由々しき事態だと思いながらも忙しいので仕方ない。しかし、たくさん寝ている暇があったら数学書読むか、映画見るかぐらいはしたい。今後映画以外にも書きたいなあ(小説とか数学のこととか)と思っている。かければの話だがw 脇道にそれたので本題に入ろう。

 

夢路歩というキエフというレンジファインダーフィルムカメラを使う女子高生(ここがめっちゃ萌えのポイント)主人公の短編映画。原作もあるのだが、あまり準拠しているようには感じなかった。短編ごとに話がかなり変わるので一個ずつ見ていきたい。

 

・わたしは、シャッターガール by 手塚眞

かいつまんで言うと夢路が写真が急に撮れなくなり悩む話。最初はとても写真を撮るのが好きだったのに、シャッターきった瞬間その被写体の「命を落とすこと」になると感じ撮れなくなっていた。そんな悩みを持ちながら最終的にはスランプを脱出し撮ることができるという話である。それ以上あまり話すことがないというのが本音だが、少し写真っぽさを感じた映画だった。写真の延長として映画を撮っているようなそんな感じが見受けられた(あくまで私の感想である)最後には無事撮れるようになった。

ここで私個人の写真観に触れながら話していきたい。(私も写真が好きである、とても好きである)写真を撮ることによって「命を落としている」とここで歩は感じているが、私は逆にフィルムさえ残っていれば撮った被写体は「そこに在る」のだ、永遠に。素晴らしいものと思っている。愛する家族がなくなっても、写真さえ残っていればそこにいるのだ。(多少の侘しさはあるが)そういう意味では永遠なのだ。そう思って欲しい。

 

・写真って何? by コバヤシモトユキ

これはタイトルの通り、夢路が写真って何?とか写真に対する悩みについて考えている話だ。これには小森くんという原作には現れない男の子が出てくる。その子はプロになることを目指している、いい写真のためには危険なこともしてしまう、危なげな子である。その子や他の写真部部員と自分にとって写真とは何か?を夢路が問う。ある部員は写真は感性だといい、またある部員は思い出といい、他には思い出の集積であったり。小森くんは写真はラブレターという、自分の思いを伝えるものだという。素晴らしい。彼女は多分この問いに常に直面していたのだろう。ただ、最後ちょっともやっとする終わり方だったので少し消化不良が否めない。今も考えているがわからないので、なぜ最後にああしたのかいつかコバヤシモトユキさんにお会いする機会があったら是非聞きたい。また、顧問役を演ってらっしゃるハービー山口さんの言葉がとても勉強になった。これを見ただけで私はこの映画を見た価値があると言っても過言でないとおもう。

写真とは何か?これは写真をやってる人なら一度は考えることだと思う。残念ながら私はまだこの問いに答えられない。ただ、この映画のメインは間違いなくこの短編で、これだけで一個作って欲しいと感じた映画だった。

 

・夢路!お前無茶すんなあ! by 寺内康太郎

これは本当にタイトル通りの清々しいほど、夢路が無茶をする短編だ。夢路のことが好きな小野田くんという男の子がまあいわゆるストーカー的な感じで、夢路と同じ写真部のたまきくんに相談するシーンがある。たまきくんは「嫌いとは思ってないと思うよ」というと「嫌いじゃないってことは好きってことだろう?」という勘違い甚だしいやろうだ!人の感情が二値論理なら苦労しないだろう……。無関心というか知らないだけじゃん!と心の中で突っ込みを入れた。夢路とたまきについて行って告白するのだが、見事に振られ大号泣する。そこを夢路がシャッターチャンスというばかりにとりまくるのだ(笑)  そこでたまきがタイトルのフレーズをいうのだ(笑)  見てて小気味よかった可愛らしい映画だったが、逆にそれ以上は思わなかった軽さだった。

 

とまあ、こんな感じを思ったのだが、これをみて私の写欲はみるみる内に溜まっていって、ああ撮りてえ。アラーキーになりたい。と心から思ったのだった。また写真のことも考える楽しい日々を過ごしていきたい。そう思わせてくれるいい映画だったと私は思う。

あまり感想っぽくないが、こういうのもいいだろう。

 

チョコレートドーナツ

2012年、トラヴィス・ファイン監督によるアメリカ映画。

 

1970年代のとあるゲイカップルの実話のお話。

ゲイバーでドラッグクイーンをしているルディ・ドナテロが(に?)一目惚れした検事のポール・フラガーと恋に落ちた。その次の日、ルディの隣にいたドラッガーの母親マリアンナ・レディオンが逮捕されてしまい、その息子で知的障害者のマルコ・レディオンは一人ぼっちに。マルコをほかっておけないと思ったルディはポールに相談して一緒に育てることに。最初の一年間はとても幸せな日々を過ごした(それでも多少の波乱はあったが)が、ポールの上司のウィルソンが開いたパーティでルディとドナルドの関係がばれてしまい、ポールは首に、そしてマルコの親権も奪われてしまう。その親権を二人して取り返そうとするが……。

 

とまあこんな感じの話である。これを見終わったあと一番最初にでた率直な感想は「本当の家族というのに、血の繋がりは関係ないのだなあ」ということだった。(わりと月並みな表現だが)ルディがポールにマルコを育てたいと相談した時に話していたワンシーンが私にとってはとても印象的だった。

ポール「(マルコを育てるのは)簡単じゃない」

ルディ「簡単じゃないからって、やらないの?」

たった数秒のやりとりだが、僕はここが一番好きなシーンだ。そこにルディのマルコへの愛が詰まっていると思う。1970年代にはまだゲイやレズビアンといったセクシャルマイノリティーに対する偏見が強くあった頃、知的障害者への配慮も全然進んでいなかった。(今も偏見がないとか配慮があるかといったら、まあわからない)そのせいで親権を得るのに苦労するルディとポールなのだが、それでも公選弁護人や検事と果敢に戦う姿は涙がちょちょぎれるものだ。(もっというならこれは世間と戦っていると感じた)

 

最近知った概念なのだが、「感動ポルノ」というものがある。

詳しくはこちらを見て欲しい。

障害者は感動ポルノとして健常者に消費される - ログミー

少しずれているかもしれないが、今回のこれも一種のそれに近い概念かなと思う人もいるだろう。しかし、それとは違うと確信している。なぜなら私はマルコが知的障害者じゃなくてもルディは引き取ったと思うからだ。今回、触れて欲しいのは『子を思う心は母が持つとは限らない。また生物学的な親以外が持つこともあり得る』ということである。もちろんジェンダー知的障害者の偏見についても触れているが、私はここを一番言いたい。

普段私たちは血が繋がっているからといって『家族』という最小の社会に勝手にいれられる。(孤児だったとしても『家族』という社会には入れられると思っている)もちろんそれが本当の家族になる人もいるが、そうじゃない人もいる。人なのだから適応できない社会があるのは当然だと(私は)思っている。他の社会、例えば学校や会社といったものは全て嫌ならば変わることができる。しかし、『家族』という社会は逃げ出せない社会だ。(ここで勘当とか家出とかあるじゃないかと思うかもしれないが、勘当されても家出しても戸籍には少なくとも10年(だった気が)は残るので他に比べると簡単に切れるものではないと思う)血が繋がっている限り『家族』というものを強要されることはある種の呪いになっていると感じる。合わない社会にいることが地獄だということは多分わかっていただけると思うのだが、それが一生付きまとうのは辛い、本当に辛い。

しかし、マルコとルディ、ポールの『家族』は血は繋がってないが本当の家族だった、そこに親としての愛情があったのだ。それがとても僕の中で感動を覚えたのだった。

 

結局なにが言いたいかというと、この映画はゲイカップルや知的障害者というマイノリティーな要素でお涙頂戴といったチープなものではなく、それによって社会というものを強調することによって『家族』とは、『親』とはなにか?というものを強く問うてる映画になっている!と言いたかったのである‼︎(勝手に思っているだけかもしれない)他にもたくさん思うところはあるが、それはちょっと面倒ごとになりそうなので割愛させていただく。

 

個人的には本当にいい映画だと思うので是非見て欲しい。あと、個人的にルディの歌声が色気があってかっこよかったので是非そこにも注目してみてね!

 

しかし映画のレビューしか書いていないのはおもしろくない。今度ちょっとした価値観とかご飯を食べるということについて少しつらつらと書いてみようかな。

 

髪結いの亭主

1990年、パトリス・ルコント監督によるフランス映画。

 

主人公のアントワーヌが12歳の頃に豊満で魅力的な女性の理髪師に恋心を抱き、大人になって髪結いの亭主になることが夢だった。そんなアントワーヌがおじさんになった時、理髪店を営む若く美しいマチルドに一目惚れし夫になる。彼女と愛と性を満たしながら幸せな日々が過ぎていく……

というのが大まかな話です。アントワーヌが惚れ込むのもおかしくないほど、マチルドを演じるアンナ・ガリエナがただ美しいだけでなく、妖しく体全体に愛に満ちている人だと思いました。初めて見てずっと魅入るような美人ってそんなにいないと思ってるですけど、アンナ・ガリエナをみた瞬間に本当に魅入ってしまったんですよ。この世界に入ってみたいと本当に思いましたね…

話を映画に戻して、この映画のほとんどはアントワーヌとマチルドの理髪店での愛の営みやお客さんとのやりとりである。二人の世界はそこだけで完結しており、それ以外には何もない(正確には何もいらないかもしれない)ような、とても淡々と何もなく幸せに終わるような気配を感じたのです。ただマチルドはただ愛を猛烈に渇望する方で、アントワーヌと結婚する時も「愛がなくなって、優しさで付き合わないようにしてね」と言ったのです。マチルドの最期は二人の愛のピークだったのかもしれません。彼女は彼と営んだ後、河に飛び込んで死にました。遺書にはこう書いてあります。

『あなた、あなたが死んだり飽きる前に死ぬわ。優しさだけが残っても、それでは満足できない。不幸より死を選ぶの。抱擁の温もりやあなたの香りや眼差し、キスと胸に死にます。あなたがくれた幸せな日々とともに。息が止まるほど長いキスを送るわ。愛していたの、あなただけを。永遠に忘れないで』

人生に変化があるように、二人の愛に変化、特に衰える変化、がある。その変化を嫌うがあまり死を選ぶ。それによって永遠の愛を得られると考えているのでしょう。とても強い愛です。他にも方法があるんじゃないかと思うかもしれませんが、それはその人にしかわからないんです。愛のかたちは一つではありませんし、各々他人に理解されないような愛し方、愛され方があるのだと思いました。

 

これを見るきっかけになったのは、私が尊敬するイエローモンキーの吉井和哉さんが好きだからという理由でみてみました。彼はこれをみて何を思ったのでしょうか。彼の愛が気になりますね。

 

ちなみに「髪結いの亭主」には「ヒモ」という意味があるそうで。

 

それでは。